今更の、自己紹介・・・パート1

おいでん仕掛け人

2011年02月15日 23:53

1971年 
6月11日、兵庫県神戸市長田区の病院で生まれる。
のちに、母親から「異様に手足のデカイ、真っ黒な赤ん坊」だったと聞かされる。
しかし生後40日ほどで、父親の故郷神戸を離れ、母親の長兄を頼って愛知県に移り住む。
幼少期のこの頃までは長髪だった。

1976年 
宮口幼稚園に入園。
入園当初、母親の姿が見えなくなった途端に、泣きながら一人で家に帰ってしまうなど、かなり先生を手こずらせたようだ。しかし、次第に「冒険の森」と呼ばれる園に隣接する遊び場で、自分磨きをするようになる。

1979年 
朝日小学校に入学。
マラソン大会では、一年から、2位、7位、2位、5位、5位、12位の成績を収めるなど、運動神経には自信があった。6年生になると、生徒会の書記として立候補。各クラスに演説で回った甲斐あって見事トップ当選を果たす。(ただ単に運動神経が良いことが、オトコの価値を上げていた時代だった)
またこの頃、体育館での何かのイベントで、嫌がる同級生2人に無理やり女装させて「ピンクレディー」を演じさせ、裏方として拍手喝采を浴びることの快感を覚える。今思えば、このことが「仕掛け人」としての第一歩を歩む事になった。
5年生になる頃、中日新聞の朝刊を150軒(230部程)、自転車で雨の日も雪の日も毎朝配達する。もちろん給料は親に上納。卒業まで続けて、ハングリーさと強靭な肉体・精神を手に入れることに成功。

1985年
崇化館中学に入学。
算数から、突然、数学へと変化した事に対応できず、いまだに計算は苦手。ただ、地理・歴史など、記憶力勝負の科目は、秀才にも負けないくらいの点数を獲得。全教科を通じて、かなりムラのある成績であった。ただ、美術など絵を描くことは好きで、よく、ヘンな似顔絵を描いては女子から敬遠されていた。
一年生の時、バレー部に所属するが、上級生に対しての態度が悪いということで、ハンパないくらいのシゴキを受けた。このことがトラウマとなり、先輩ヅラすること、されることに嫌悪感を抱く。同時期、イジメをする側もされる側も経験したことが、自分自身の人格形成において貴重な体験となる。
幼稚園入園前から毎日続けていた早朝マラソンのことが中日新聞に取り上げられ、「暁の兄弟ランナー」との見出しで、3つ下の弟とともに紹介される。(何故か取材当日には、普段走っていない家族や近所の人も総出で写真に納まっていた)
この頃、音楽にも目覚めるようになり、特にYMOを崇拝していた。よく、小遣いを手に、大須赤門のサウンドショップに出かけ、子供くせに大人買い。オーディオ機器などを購入し、ミキサーを駆使したオリジナルカセットテープを、親しい人に超格安で販売するなど、結構小遣い稼ぎをしていた。
あと、自転車にもハマっていて、一歳下のいとこと一緒に知多半島師崎まで走り、フェリー便で伊良湖岬に渡り砂浜でキャンプを張った。帰り道で、偶然にも「戸塚ヨットスクール」前を通りがかり、記念写真を撮る。 



波乱の高校時代以降は、パート2へとつづく・・・

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